NEW-2013台灣海筆子帳篷劇《黴菌市場  默示錄》-FB  

「台湾海筆子」企劃製作

テント芝居「黴市場 黙示録」

時間:2013/12/3(二)~12/8(日)每晚七點半開演

地點:台北市信義區福德街221186-1「微遠虎山」空地特設帳篷

 

テントという場所性について
                                                  編導 桜井大造

 テント演劇の行動は、まずある自然空間を大きな布で包むことから始まる。しかし、その内部に現れる空間は決して特別なものではない。外部と同様の組成をもつ空気(物質)から成り立っている空間だ。しかも密閉度の高い建築物とはちがって、風雨や雷などの自然気象や、人為的自然(ゴミ回収車の騒音など?)が容易に紛れ込む。外部と変わらない「何もない空間」なのだが、「布」という最小の質量(エネルギー)によってテント内部にはその「何もない空間」が明瞭に顕現し観測される。それは、外部現実と違う「もう一つの空間」ではない。私たちの「現実」をより明瞭にする空間が現れるのだ。


 「何もない空間」とは何であるか? それはゼロに見えるのだが、もちろんゼロではない。むしろぎっしりと何かがつまっている空間である。そのぎっしりと詰まった何かが、生成と消滅を繰り返し、ゼロに見せているのだーーあっ、やめよう。これ以上面倒臭い屁理屈を言うと、だれもテントへ足を運ばなくなる。


 ともかく、何かがぎっしりと詰まった空間(そこには当然、時間もぎっしり詰まっている)に、テント演劇は介入しようとする。入り込むためには相当のエネルギーが必要となる。ぎっしりと詰まった何かが、テント演劇の身体を、行為を、言葉と激しく摩擦するからだ。そしてその摩擦がテント演劇の質量となる。
 しかし、なぜ、そのような無駄にも思える行為をテント演劇はするのか? これがヒトという存在の悩ましい秘密である。おそらく「真の現実」を知りたいという欲望ではないだろうか。「自身が本当に存在するのだ」という一瞬の確信のためではないだろうか。そして、その「真の現実」から現実の社会的関係や日常生活をながめてみたい、という欲求ではないかと思われる。テント演劇は「反省の形式」であると考えるのはそういう意味である。


 「観測されないかぎり存在というものはない」という説にしたがえば、観測されるに足るだけの膨大なエネルギーと観測する方法とがテント演劇には必要となる。20世紀のある哲学者は、ヒトの活動的生活を3つの能力が構成しているという。それは労働(labor)、仕事(work)、活動(action)である。労働は生命を維持するために「自然」に働きかける行動能力。仕事は人間が「消費」するための対象を作る行動であり、人為的自然を作る行動能力。活動はヒトとヒトとが「言語」を介して直接関係する行動能力。これが「政治」であるという。


 この分析をテント演劇にあてはめれば、テント演劇は他の芸術的営為と異なり、労働にかなりのエネルギーを使用する。もちろん仕事にかけるエネルギーを減少させるわけではないが、消費のよき対象にならないかもしれない。そこが観客の悩ましいところだ。おそらく、その悩ましさを観客がその活動能力によって乗り越えるときに、テント演劇という場は意味をもつだろう。テントという場所において、何者かを、そして何事かを観測し「存在」させるのは、観客の活動能力によるからだ。

 ーー黴菌はヒトの皮膚に常駐している、ヒトに一番近い隣人であり、他者である。「黴菌市場」と呼ばれる水辺に面した都市の片隅がこのテント演劇の舞台設定である。「黙示録」は新約聖書「ヨハネ啓示録」の日本語訳である。しかし、この芝居では字義通り「暗黙のうちに示す記録」の意味である。

 

※※【台灣海筆子】Blog http://taiwanhaibizi.pixnet.net/blog

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